どうしてギャンブルが好きなのだろう
昨日のブログで取り上げた大王製紙井川元会長の著書「溶ける」の中でもっとも心に残ったのは,著者が「私はギャンブルが好きでたまらなかった」と率直に書いていたところである。
それはきっと,私自身もそうだからである。
私は決して依存症ではない(と自分では思っている)が,ギャンブルは好きだ。
あなたの趣味は何ですか?
ストレス解消法は何ですか?
何をしているときが一番楽しいですか?
しかしそもそも,どうして自分はギャンブルが好きなのだろう?好きになったのだろう?
もはや時効であろうし白状するが,私がはじめてギャンブルをしたのは中学生のときだ。
その後,高校生になると賭け麻雀をするようになる。「世の中にこんなに面白いものがあるのか」と衝撃を受けた。大学に入ると完全に雀荘に入り浸るようになった。
そんなふうにギャンブル好きになったことについて,外部的原因として思い当たるのは,中学受験である。
私は小学校4年生から塾に通い出した。
その数字は,受けるたびに上下する。
上がれば褒められる。
テストは,個々の問題に対する判断の連続である。
判断に正解すればするほど数字は上がるし,判断を誤る数が多いほど数字が下がる。
その仕組みは,ギャンブルに類似する。
ギャンブルも,判断の連続である。
判断に正解するほど収支はアップするし,誤るほど収支は下がる。
「順位」「偏差値」「合格可能性」
今思うと,塾のテストで”数字を取った”とき,小学生の私の内側前脳快感回路がそれまで受けたことがないくらいの強い刺激を受けて強い快感を得ていたような気がする。
それで私は,「判断→正解→数字ゲット」という似たような快感をインスタントに得られるギャンブルを好むようになったのではないか。
こんなことを思ったのは,井川氏も,同じような中学受験経験者だったからだ。
とくに氏の場合は,生まれたときからずっと愛媛で育っていたところ,親の仕事の都合で東京への引越しが決まったので東京の中学を受験することになり,東京の塾に通うようになった。
東京の子供たちと絡むと,自分が田舎者であることをまざまざと思い知ったという。多感な時期である。多少のコンプレックスも感じたであろう。
そんな井川少年は”テストの数字をゲットしたとき”には強い快感を覚えたはずだ。ましてや,コンプレックスを覚えている相手に対する数字であれば,それはひとしおだったろう。
受験は数字で評価されるゲームの1種ともいえ,それはギャンブルと共通する。
それゆえ,少年時代に受験に費やしたエネルギーとギャンブル好きになる可能性は,かなりの相関性があると私は思っている。
実際,京都の雀荘なんかだと,K大生やD大生の割合がかなり高く,それは,賭け麻雀が市民権を得ていることの証拠として私が裁判で主張したほどである。
井川氏の著書を読むと,とにかく数字へのこだわりが強い。
井川氏には,”数字依存症”ともいえる部分があるように思える。
たとえば,堀江貴文氏や村上ファンドの村上世影氏だが,実は彼らも中学受験経験者である。
ライブドア時代の掘江氏は「時価総額世界一を目指す」が口癖だった。
何かをつくる,とかではなく,「時価総額」という数字を目標にしている点に数字へのこだわりが感じられ,井川氏と共通するにおいがある(ついでに書いておくと,井川氏と堀江氏は親交のある友人同士のようだ)。
多感な少年時代に,数字での快感を強く覚えると,大人になってからも,知らず知らずのうちにその快感を求める傾向が強くなってしまうのだろう。
そして人によっては”依存症”になるほどのめり込んでしまう。
しかし,今も昔も,中学受験をしている多感な少年たちは,多かれ少なかれ,大人への釈然としない思いを抱いているはずだ。
受験戦争という手垢のついた言葉があるが,これは真実をついている。
受験は戦いである。
誰かかが合格するということは,誰かかが不合格になるということだ。
誰かの成績が上がれば,誰かの成績が下がる。
自分の成績が上がって褒められているときには,きっと誰かがかわりに怒られている。
小学生はバカではない。
みんなそんなことは十分承知である。
小学生の私は,そういうのっぴきならない戦場に自分たちを送り込む一方で,さわやか何たらとかいうふざけたテーマソングのくだらないビデオを見せて「みんな仲良くしないといけません」なんて建前の道徳を言ってくる大人たちに,全くもって釈然としない気持ちだった。強烈な不信感を覚えた。
ギャンブルについての今の日本の法律やその取り扱いは,全て,建前の道徳が前提とされている。
みんなが悪だというから悪だと思っているだけである。
が,それはさておき,大人になった私が今こういう考えであることも,少年時代の経験が影響しているのかもしれないと思ったりした。
人間の人格は,30歳から先は根本的に変わることはないらしい。
空疎な建前の道徳を不愉快に思う気持ちは,一生私から消えないのだろう。