津田岳宏の事務所

無料ブログはココログ
2016年5月
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31        

« 2015年3月 | トップページ | 2015年6月 »

2015年5月

2015年5月29日 (金)

弁護士が萎縮させてどうする~めちゃイケ賭博罪疑惑の潔白性~

賭博罪の要件は,司法試験のひっかけ問題にもなるくらいで,ややこしい。
弁護士でも誤解している者がいる。先日,こんな記事を発見した。

<弁護士が気がついた>5月9日「めちゃイケ」は「賭博罪」と「遺失物等横領罪」に該当する? 

ここでは,「めちゃイケ」のコーナー「持ってけ100万円」が賭博罪になるおそれがあるなどと指摘されている。
しかし,この「持ってけ100万円」は

通行人→100万円取得の可能性はあるが,金を失う可能性はない
番組→100万円を失う(矢部にあげる)可能性はあるが,金を得る可能性はない

というスキームだ。

だとすれば,矢部については100万円を得る可能性も失う可能性もあるとしても,参加者相互の間に危険負担の関係は成立しないので,賭博罪は成立しない。

賭博罪の成立には,参加者相互に「リスク=リターン」の相互的危険負担の関係が必要である(当ブログ相互的得失参照)。

あくまでも「参加者相互に」が要件であり,「参加者ひとりに」ではない。
誰かと誰かが互いにリスクを負いリターンの可能性ある勝負をしてはじめて法律上の「賭博」になる。
この点,東京高裁昭和32年12月25日判例は「賭博とは、二人以上の者が相互に財物を賭け偶然の勝負によりその得喪を決める行為である」「勝負の偶然性は賭博に参加する当事者全員について存在しなければならないものであり、参加者のうちに偶然性のない者の存する場合は全面的に賭博行為は成立しないものといわねばならない」と明確に判示している。

「持ってけ100万円」では,通行人は得るだけ,番組は失うだけ,なので,互いにリスクとリターンのある勝負をしているとはいえず,相互的危険負担の関係が成立せず,賭博罪が成立する余地はない。

「お前ら今から相撲を取れ。勝った方に俺が1万円やる」

この事例に賭博罪が成立しないことは,過去の記事で書いた。
これをさらにひねり

「お前,あいつと相撲を取れ。勝ったら俺が1万円やる。でも,負けたら1万円をあいつにやれよ」

この事例でも,相互的危険負担にはないので,賭博罪にはならない。
「持ってけ100万円」は,まさにこの事例である。




賭博罪への誤解よりも気になったのは,「可能性がある」などという曖昧な指摘で,表現の自由を萎縮させるようなことが書かれていた点だ。
曖昧な書き方をしたのは自信がなかったからなのだろう(実際誤解している)が,自信がないのであれば,表現の自由を萎縮させるような指摘をするなど言語道断だ。

憲法の中でも,表現の自由は最重要の権利とされている。
これはひとえに,表現の自由が国家権力により侵害されやすい権利だからだ。
権力を握った者にとって,表現の自由ほど,うっとしいものはない。
ペンは剣よりも強し,権力者というのは,表現の自由が自らを脅かすものであることをよく知っている。
だから彼らは,隙あらばその自由を規制しようとする。

自由を規制しようとする権力側は,国民に対し「これはダメだ」とまで思わせる必要はない。
「これは危ないんじゃないか」と思わせるだけで十分だ。
誰だって捕まりたくはない。危ない橋は渡りたくない。
実際に違法にしなくても,それを「危ない橋」に見せることができれば,目的は十分達せられる。

これは危ない,と思わせて,実際は合法な行為までさせないようにする効果を萎縮効果と呼ぶ。
表現の自由は,とくに萎縮効果を受けやすい権利である。
それは,最近のテレビを見ていても顕著である。
明らかに過度な規制(ないし自主規制)がかかっているように見える。
法律的には,もっと自由にやっても全く問題ないはずだ。
風紀罪(賭博罪は風紀罪のひとつ)を専門とする弁護士として言わせてもらえば,「持ってけ100万円」なんて,理論を云々するまでもなく,直感的に大丈夫である。
あの程度のことで,風紀罪に違反するとして表現の自由が規制されるのであれば,わが国は北〇鮮のことを全く笑えない。

表現の自由は,民主主義社会では,最重要の権利とされている。
民主主義は,皆が遠慮せずに言いたいことを言って主張したいことを主張するという前提があってはじめて成立する。
憲法学上,表現の自由はきわめて厚く保護すべきものとされていて,そこには,「やり過ぎの表現をする自由」も含まれている。
アメリカの判例理論に,保護に値する表現のみ保護するだけはいまだ不十分である,というのがある。

テレビ等のマスコミの表現の自由については,それが一般人の人権との間では,相当程度規制されるのはやむを得ない。
一般人との関係では,マスコミは強者だからだ。
しかし,風紀を名目に表現の自由を規制しようする国家との関係でいえば,マスコミとて弱者である。
そこでは,マスコミの表現の自由は最大限に保障されるべきであるし,風紀との関係で「多少やり過ぎ」の表現も,許容されるべきである。

「風紀」というのは,曖昧な概念で,いかようにも広く捉えられる概念である。
「風紀に反する」という理屈は,自由を規制したい側にとっては,使い勝手が非常にいい。
それゆえ,風紀を根拠に表現の自由が過度に規制されると,民主主義はあっさり崩壊するのだ。
太平洋戦争末期の日本はまさにそういう状態であった。
風紀罪に反することを恐れ,萎縮して,自由な表現がなされないというのは,非常に危険な事態なのである。




弁護士というのは,別に高尚な仕事ではない。いやむしろ,他人様のもめ事に首を突っ込んで上前ハネる稼業だと思えば,仕事自体に品はない。
それでも世間から「先生」などと尊称を付される価値があるのだとすれば,それは,法律の専門家という立場から,人々を萎縮から解放させることができる点に尽きるのではないか。

法律は難解である。
一般の人からすれば,何が合法で何が違法なのかよく分からない。
必然,違法っぽい行為には,それが実際に合法であっても手を出せない。
善良な一般人は皆,権力がつくった法律に萎縮している。

弁護士は法律を知っている。
合法と違法の境目に詳しい。
だからこそ,弁護士は,萎縮している一般の人たちに,「これなら大丈夫ですよ」と教えることができる。
その人の自由の領域を広げることができる。
無用な萎縮から解放することができる。
弁護士の意義は,そこにあるのではないか。

弁護士の法律知識は,人々を萎縮させるために使われるべきではない。
それは,人々を解放するために使われるべきである。


よろしければクリックお願い致します→ 人気ブログランキングへ

2015年5月 9日 (土)

外には見せるな、中は隠すな

賭博罪は風紀に対する罪である。
これを野放しにすると風紀が乱れるから,というのが賭博罪の基本的存在根拠だ。

風紀が乱れているかどうかの判断権は,日本では伝統的に,警察や検察などの行政(以下,まとめて「当局」という)に委ねられてきた。
現在でも,賭博罪の扱いについては,当局に大きな権限がある。
ささいな賭博を執拗に検挙すると逆に国民の反発を買う(から注意せよ),ということは現役検察官が書いた捜査マニュアル本に書かれており,当局は,全ての賭博を検挙するわけではない。
検挙する必要あり,と判断した賭博だけが検挙される。
そして,当局が処罰の必要性ありとして検挙して起訴すれば,裁判所はその判断を重視し,そのまま有罪判決を下す。
以上のプロセスのもと,処罰されるかどうかの判断権は,実質的には,司法ではなく行政が持っている。
これは,いわゆる「法の支配」の観点からは問題ありともいえるのであるが,適切な法の運用という観点からは,具体的な風紀の乱れの判断は司法よりも行政がするのが適しているので,このような扱いは,今後もずっと続くであろう。

よって,取り締まられる側からすれば,風紀罪についての当局のスタンスを知ることがとても重要だ。
このスタンスがよくあらわれている条文があるので,今日はそれを紹介する。


風営法施行規則 第8条

法第四条第ニ項第一号の国家公安委員会規則で定める技術上の基準は、次の表の上欄に掲げる風俗営業の種別の区分に応じ、それぞれ同表の下欄に定めるとおりとする。
風俗営業の種別 構造及び設備の技術上の基準
法第二条第一項第一号又は第三号に掲げる営業 一 客室の床面積は、一室の床面積を六十六平方メートル以上とし、ダンスをさせるための客室の部分の床面積をおおむねその五分の一以上とすること。
二 客室の内部が当該営業所の外部から容易に見通すことができないものであること。
三 客室の内部に見通しを妨げる設備を設けないこと。
四 善良の風俗又は清浄な風俗環境を害するおそれのある写真、広告物、装飾その他の設備を設けないこと。
五 客室の出入口に施錠の設備を設けないこと。ただし、営業所外に直接通ずる客室の出入口については、この限りでない。
六 第二十九条に定めるところにより計つた営業所内の照度が五ルクス以下とならないように維持されるため必要な構造又は設備を有すること。
七 第三十一条に定めるところにより計つた騒音又は振動の数値が法第十五条の規定に基づく条例で定める数値に満たないように維持されるため必要な構造又は設備を有すること。
この条文は,キャバクラなどの設備基準を定めた条文である。
注目してほしいのは

二 客室の内部が当該営業所の外部から容易に見通すことができないものであること。
三 客室の内部に見通しを妨げる設備を設けないこと。

の部分だ。
読んで分かるとおり,法は,内部を外部から容易に見通すことができないことを要求した上で,内部には見通しを妨げる設備を設けるな,と要求している。

一見すると,矛盾しているようにも思える規定である。
見せたらダメなの?見せるべきなの?どっちなの?と言いたくなる。

しかし実は,相反するように見えるこの条文の内容に,風営業者及び風紀に対する当局の要求が詰まっている。

もう一度よく読んでほしい。

法はまず,「外部から」見えなくすることを求めている。

その上で「内部に」,すなわち中に入った人にはよく見えるように,と求めている。


外から見えないことを求めているのは,中の空気を漏らさないためだ。

法律及び当局の基本的考えは,「行為そのもの」よりも「行為に伴う空気が外に漏れること」により風紀が乱れる,というものである。

僕がブログや講演などで口酸っぱく言っている「公然としてはダメ」ということだ。
実際の話,「賭博をする」だけなら,当局は(もちろん違法行為ではあるが)そこまで厳しく目くじらは立てない。
「賭博を『公然と』『おおっぴらに』『外から分かるかたちで』する」ことにより,当局の見過ごせない事態になるのである。
賭博をしていることが外から見ても明らかになることによって,賭博をしているという空気が外に漏れて風紀が乱れる,という考え方なのである。

「外には見せるな」

これが,風紀を乱しかねないものに対して当局が要求している第一の事柄だ。


次に法は「内部はよく見せること」を要求している。
外からはよく見えないようにした上で,中に入った人には内部をよく見えるようにしろ,と要求している。

これは,外からよく見えないにもかかわらず自発的に内部に入ってくる人に対しては風紀上の保護を考えなくてもいいし(法はそういう人は仕方がない,という考え方である・笑),外には見せない,というのをいいことに内部で悪質な違法行為がおこなわれることを防止するためだ。
さらにはもっと実質的な大きな理由として,警察が調査のため中に入ったときによく見えるようにしておくため,というのもある。
あなたたちは風紀を乱しかねないのだから警察のために調査しやすくしておきなさい,と法が求めているのである。

「中は隠すな」

これも,当局が要求している大切な事柄だ。


外には見せるな,中は隠すな。

一見矛盾しているようにも見えるこの要請が,風紀に対する当局のスタンスのキモである。
関係者は,覚えておいて損はない。


よろしければクリックお願い致します→ 人気ブログランキングへ

2015年5月 8日 (金)

放送もよろしくお願いしますm(_ _)m

今日アップしたブログは,既にツイート数が100超えで,たくさんの人に読んでいただいているようだ。
ありがとうございます。
それだけ皆が気にしていた話題だったということなのだろう。
やはり,賭博罪の”萎縮的効果”は恐ろしい。
不当なり。。

一昨日したニコ生配信でも,他では絶対聞けない賭博罪に関わる話(警察のスタンス等)をてんこ盛りやっています。
興味ある方は,是非ご覧下さいm(_ _)m

賞金付ゲーム大会と賭博罪

賞金付ゲーム大会,というと賭博罪との関係を心配する人も多い。
その手の相談を僕もよく受ける。

世間には,勝負があって金が動いて賞金が出るのであれば,賭博罪になるのではと考える人も多い。
しかしこれは大きな誤解である。

賭博罪は,当該行為の当事者の財物について「相互的得失の関係」の成立が要件となっている。
「相互的得失」とは,勝者が財産を得て,敗者が財産を失い,さらに勝者が得る財産と敗者が失う財産が「相互的な」関係であること,を意味する。

勝者の得る財産は,敗者が負担する財産とイコールでなければならない。
勝利によるリターンが,敗北によるリスクとイコールでなければならない。
参加費が,賭け金とみなせなければならない。
なお,勝負のリスクは参加者各自が負担せねばならない。一方的な危険負担があるだけでは,賭博罪は成立しない。

「甲と乙が相撲を取り,丙が金を賭け,勝った方に1000円をやることにした。甲が勝ったので,丙は甲に1000円を支払った。各自の刑事責任を述べよ」

この問題,正解は,全員無罪である。
このあたりは,過去の記事でも書いたとおりだ。

勝負について賞金が出る場合であっても,「賞金=賭け金」「リターン=リスク」のイコール関係が成立しない場合は「相互的」と言えないので賭博罪は成立しない。
たとえば将棋で,「アマチュア竜王戦」という大会がある。
同大会は優勝賞金として50万円を提供する一方,参加者から2000円程度の参加費を徴収している。
しかし,同大会が賭博罪に問疑されたことはない。
同大会においては,参加者の払う参加費は会場使用料に充当されており,賞金は別途スポンサーが提供している。
よって「参加費=賭け金=賞金」という関係が成立せず,相互的得失の要件を欠くので,賭博罪が成立する余地はない。

ポイントは,「
参加費は会場使用料に充当される」「賞金はスポンサーが提供する」という点である。
もしも参加費が賞金に充当されるのであれば「賞金=賭け金」の関係が成立する余地が出るので,賭博罪(ないし富くじ罪)のおそれが出る。
賞金を出すスポンサーがいる,という点が大事である。


相互的得失が成立しないスキームさえつくれば,ゲームの性質は関係ない。偶然のみに左右されるゲームに関し賞金を出しても,賭博罪にはならない。
「お前ら今からジャンケンをしろ。勝った方に俺が1000円をやる」
こういうことをしても,賭博罪にはならない。

もっとも,対象となるゲームの社会的イメージが,当局からの疑いの程度に影響を及ぼすことはあるだろう。
賭博と結びつけられやすいゲームが対象になっていれば,やはり警戒はされやすくなる。
たとえば,「賞金付手本引き大会」というのを開催すれば,しっかりしたスキームを組んだとしても,当局から
問疑されることはありそうだ。
その意味で,当該ゲームの性質や社会的イメージはやはり重要といえる。
麻雀についても,イメージアップの活動は大事である。


現行刑法には賭博罪がある。
賭博罪が成立する行為は,違法行為である。
が,賭博罪が成立する範囲は,皆が思っているほど広範ではない。
賞金が付くからといって,ただちに賭博罪が成立するわけではない。
スキームさえしっかりつくれば,賞金付大会はいくらでも開催できるのだ。

しかし,一般の人は法律に詳しくないので,どうしても”萎縮”してしまう。
「賭博罪」という言葉自体に強い負のイメージがあるので,なおさら強く萎縮しがちだ。
結果,面白いコンテンツが世に出るのが阻害される。

賞金が出た方が大会が盛り上がるのは当然だ。
その盛り上がりは,お祭りの高揚と同じで,不健全なものではない。
賭博罪には,健全なお祭りが開催されるのを阻害する”萎縮的効果”も強く,その点も不当といえる。


よろしければクリックお願い致します→ 人気ブログランキングへ

« 2015年3月 | トップページ | 2015年6月 »