津田岳宏の事務所

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2015年5月29日 (金)

弁護士が萎縮させてどうする~めちゃイケ賭博罪疑惑の潔白性~

賭博罪の要件は,司法試験のひっかけ問題にもなるくらいで,ややこしい。
弁護士でも誤解している者がいる。先日,こんな記事を発見した。

<弁護士が気がついた>5月9日「めちゃイケ」は「賭博罪」と「遺失物等横領罪」に該当する? 

ここでは,「めちゃイケ」のコーナー「持ってけ100万円」が賭博罪になるおそれがあるなどと指摘されている。
しかし,この「持ってけ100万円」は

通行人→100万円取得の可能性はあるが,金を失う可能性はない
番組→100万円を失う(矢部にあげる)可能性はあるが,金を得る可能性はない

というスキームだ。

だとすれば,矢部については100万円を得る可能性も失う可能性もあるとしても,参加者相互の間に危険負担の関係は成立しないので,賭博罪は成立しない。

賭博罪の成立には,参加者相互に「リスク=リターン」の相互的危険負担の関係が必要である(当ブログ相互的得失参照)。

あくまでも「参加者相互に」が要件であり,「参加者ひとりに」ではない。
誰かと誰かが互いにリスクを負いリターンの可能性ある勝負をしてはじめて法律上の「賭博」になる。
この点,東京高裁昭和32年12月25日判例は「賭博とは、二人以上の者が相互に財物を賭け偶然の勝負によりその得喪を決める行為である」「勝負の偶然性は賭博に参加する当事者全員について存在しなければならないものであり、参加者のうちに偶然性のない者の存する場合は全面的に賭博行為は成立しないものといわねばならない」と明確に判示している。

「持ってけ100万円」では,通行人は得るだけ,番組は失うだけ,なので,互いにリスクとリターンのある勝負をしているとはいえず,相互的危険負担の関係が成立せず,賭博罪が成立する余地はない。

「お前ら今から相撲を取れ。勝った方に俺が1万円やる」

この事例に賭博罪が成立しないことは,過去の記事で書いた。
これをさらにひねり

「お前,あいつと相撲を取れ。勝ったら俺が1万円やる。でも,負けたら1万円をあいつにやれよ」

この事例でも,相互的危険負担にはないので,賭博罪にはならない。
「持ってけ100万円」は,まさにこの事例である。




賭博罪への誤解よりも気になったのは,「可能性がある」などという曖昧な指摘で,表現の自由を萎縮させるようなことが書かれていた点だ。
曖昧な書き方をしたのは自信がなかったからなのだろう(実際誤解している)が,自信がないのであれば,表現の自由を萎縮させるような指摘をするなど言語道断だ。

憲法の中でも,表現の自由は最重要の権利とされている。
これはひとえに,表現の自由が国家権力により侵害されやすい権利だからだ。
権力を握った者にとって,表現の自由ほど,うっとしいものはない。
ペンは剣よりも強し,権力者というのは,表現の自由が自らを脅かすものであることをよく知っている。
だから彼らは,隙あらばその自由を規制しようとする。

自由を規制しようとする権力側は,国民に対し「これはダメだ」とまで思わせる必要はない。
「これは危ないんじゃないか」と思わせるだけで十分だ。
誰だって捕まりたくはない。危ない橋は渡りたくない。
実際に違法にしなくても,それを「危ない橋」に見せることができれば,目的は十分達せられる。

これは危ない,と思わせて,実際は合法な行為までさせないようにする効果を萎縮効果と呼ぶ。
表現の自由は,とくに萎縮効果を受けやすい権利である。
それは,最近のテレビを見ていても顕著である。
明らかに過度な規制(ないし自主規制)がかかっているように見える。
法律的には,もっと自由にやっても全く問題ないはずだ。
風紀罪(賭博罪は風紀罪のひとつ)を専門とする弁護士として言わせてもらえば,「持ってけ100万円」なんて,理論を云々するまでもなく,直感的に大丈夫である。
あの程度のことで,風紀罪に違反するとして表現の自由が規制されるのであれば,わが国は北〇鮮のことを全く笑えない。

表現の自由は,民主主義社会では,最重要の権利とされている。
民主主義は,皆が遠慮せずに言いたいことを言って主張したいことを主張するという前提があってはじめて成立する。
憲法学上,表現の自由はきわめて厚く保護すべきものとされていて,そこには,「やり過ぎの表現をする自由」も含まれている。
アメリカの判例理論に,保護に値する表現のみ保護するだけはいまだ不十分である,というのがある。

テレビ等のマスコミの表現の自由については,それが一般人の人権との間では,相当程度規制されるのはやむを得ない。
一般人との関係では,マスコミは強者だからだ。
しかし,風紀を名目に表現の自由を規制しようする国家との関係でいえば,マスコミとて弱者である。
そこでは,マスコミの表現の自由は最大限に保障されるべきであるし,風紀との関係で「多少やり過ぎ」の表現も,許容されるべきである。

「風紀」というのは,曖昧な概念で,いかようにも広く捉えられる概念である。
「風紀に反する」という理屈は,自由を規制したい側にとっては,使い勝手が非常にいい。
それゆえ,風紀を根拠に表現の自由が過度に規制されると,民主主義はあっさり崩壊するのだ。
太平洋戦争末期の日本はまさにそういう状態であった。
風紀罪に反することを恐れ,萎縮して,自由な表現がなされないというのは,非常に危険な事態なのである。




弁護士というのは,別に高尚な仕事ではない。いやむしろ,他人様のもめ事に首を突っ込んで上前ハネる稼業だと思えば,仕事自体に品はない。
それでも世間から「先生」などと尊称を付される価値があるのだとすれば,それは,法律の専門家という立場から,人々を萎縮から解放させることができる点に尽きるのではないか。

法律は難解である。
一般の人からすれば,何が合法で何が違法なのかよく分からない。
必然,違法っぽい行為には,それが実際に合法であっても手を出せない。
善良な一般人は皆,権力がつくった法律に萎縮している。

弁護士は法律を知っている。
合法と違法の境目に詳しい。
だからこそ,弁護士は,萎縮している一般の人たちに,「これなら大丈夫ですよ」と教えることができる。
その人の自由の領域を広げることができる。
無用な萎縮から解放することができる。
弁護士の意義は,そこにあるのではないか。

弁護士の法律知識は,人々を萎縮させるために使われるべきではない。
それは,人々を解放するために使われるべきである。


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